LOGIN帰宅してバッグを置いたあと、なんとなくスマホを手に取った。
画面を開くと、新しく追加された名前が目に飛び込んでくる。
――滝川來。
見慣れない名前が、自分のスマホに並んでいることが不思議で仕方なかった。
ほんの数週間前までは赤の他人だったのに。
それなのに、こうして連絡先を交換している。
その事実が、どこか現実味を帯びないまま胸の奥に残っていた。
そんなとき、不意に着信音が鳴った。
画面には「母」の文字がうつる。
「……もしもし」
出ると、いつものように母が明るい声で近況を尋ねてきた。
度々こうして連絡が来るのだ。
主に――わたしの恋人のことについて。
けれどわたしは、母に望のことを詳しく話したことがない。
職業も、名前でさえも。
ただ「六年間付き合っている人がいる」ということだけを伝えていた。
だから母はいつも詮索してくる。
「どんな人なの?」
「ちゃんとした職についてるの?」
「六年も付き合ってるんだから、結婚を考えてるんでしょう?」
しまいには、
「一度連れてきなさい」
そう言われた。
わたしは喉の奥に言葉を詰まらせながら、「また連絡するね」とだけ答えて電話を切った。
本当は――もう別れてしまったなんて、とても言えない。
きっと根掘り葉掘り聞かれて、余計に面倒になるだけだから。
通話終了の画面を見つめ、わたしは深いため息をついた。
重たいものが胸に沈んでいくのを感じながら。
***
それから数日後のことだった。
仕事を終えて一息ついていると、スマホに通知が届いた。
画面を見て思わず背筋が伸びる。
差出人は──滝川來の文字。
《先日お世話になった滝川です。お聞きしたいことがあるのですが……》
初めてのメッセージ。
思わず胸が少しざわつく。
わたしはすぐに返信を打った。
《横井です。なんでしょうか?》
カフェで話したときにも、誠実そうな人だという印象を持った。
その印象は、この短い文面からも伝わってくる。
几帳面で、真面目で、どこか堅苦しいくらいに丁寧。
思わず口元が緩んでしまった。
ちょうどこの日は、涼ちゃんとヒロちゃんと三人で久しぶりにランチをする約束が入っていた。
スマホを鞄にしまい、わたしは支度を整えて家を出た。
***
ランチの場所は、ヒロちゃんが前から目をつけていたというイタリアンだった。
店の前で待ち合わせをすると、もうそのときから会話が止まらない。
「ちょっと見て、この外観!おしゃれすぎない?」
「ほんとね。絶対料理も期待できる」
そんな調子で笑い合いながら店に入り、テーブルに着いたあとも話題は途切れることなく続いていった。
けれど、時折ふと、涼ちゃんとヒロちゃんが視線を合わせてわたしの様子をうかがっているのが分かった。
……心配してくれているのだろう。
だからこそ、わたしは改めて二人に頭を下げた。
「涼ちゃん、あのとき駆けつけてくれて本当にありがとう。ヒロちゃんも……望と別れるとき、背中を押してくれて。二人には感謝しかない」
「なに言ってるの。当たり前じゃない」
「そうよ。友達でしょ?」
二人は声を揃えるように笑った。
その言葉に胸が温かくなる。
すると、涼ちゃんが軽く肩を叩いてきた。
「奈那子ならすぐに新しい彼氏できるよ」
その瞬間、なぜか脳裏に浮かんだのは──滝川さんの顔だった。
不意に心臓が跳ねて、慌ててグラスに手を伸ばす。
その変化を見逃さなかったのか、涼ちゃんとヒロちゃんが同時に目を丸くする。
「……まさか?」
「……実はね」
わたしはグラスを置き、二人に視線を向けた。
「最近、ある男性に出会ったの」
涼ちゃんとヒロちゃんが同時に身を乗り出す。
「カフェで偶然、相席になった人なんだけど……」
言葉を選びながら、あの日のことを話した。
ルーチェで別れ話をしていたカップル、そのとき隣にいた男性のこと。
女性にふられて、でも私にハンカチを差し出してくれた人でもあること。
「しかも、その人……四月から桜南高校で数学の先生として働くことになってるの」
「ええっ!?」
二人は声を揃えて驚いた。
そのとき、不意にスマホが震えた。
画面を見ると、滝川さんからのラインだった。
「……実は、もうライン交換してて。今日、初めて連絡が来たの」
わたしが少しそわそわしているのを見て、ヒロちゃんがにやりと笑った。
「返事してもいいわよ?」
おそるおそる画面を開く。
《学校の近くで、横井さんのおすすめのカフェやレストランを教えてもらえますか?》
ルーチェは、彼にとっても嫌な記憶が残っているんだろう。
そう思って、以前に何度か行ったことのあるパスタ専門店を紹介した。
すると、すぐに既読がつき、返信が返ってきた。
《今度、その店に一緒に行きませんか?》
「……え?」
わたしは思わず固まってしまった。
「どうしたの?」
涼ちゃんとヒロちゃんが同時に心配そうに覗き込んでくる。
スマホを二人に見せながら言った。
「……食事に誘われた」
一瞬の沈黙のあと、二人は目を見合わせてにやりと笑う。
「奈那子……もう春到来?」
「さすが奈那子!モテるわね!」
あれだけ落ち込んでいたわたしに、また春が訪れようとしているのだろうか。
二人の嬉しそうな表情を見ながら、胸の奥が少し温かくなっていくのを感じた。
翌日になると、昨日ひねった足はすっかり良くなっていた。昨日は少し痛かったけれど、たいしたこともなく、湿布を貼って寝たらもう痛みも感じないくらいだった。少し安心しながら出勤したこの日、保健室は朝からいつもよりもにぎやかだった。放課後テストが近いせいか、部活が休みの生徒が多く、その分、保健室に顔を出す子が増えていた。お決まりのメンバー――早苗が最初にやって来て、少し遅れて長野と常盤も姿を見せた。3人とも、どうやら話すために来たという感じがする。「先生〜、やっほ〜!来ちゃった!今誰もいない?」「ええ、いないけど……もうすぐテストでしょ?テスト勉強はしなくていいの?」わたしが笑いながらそう言うと、長野がすぐさま大げさに肩を落とした。「え〜、奈那子ちゃんまでテストの話しないでよ〜!」「もしあれなら、ここで勉強してもいいわよ。 今は保健室使ってる子いないし。体調不良の子が来るまでだったらね」そう言っても、3人の顔には「勉強する気ゼロです」と書いてあった。代わりになぜか質問攻めにあってしまう。「奈那子ちゃんって、何の教科得意だった?」とか、「数学教えてよ〜!」とか。「数学なら、滝川先生に聞けばいいじゃない」そう言うと、常盤がすかさず答える。「滝川っち、きびしーもん!」思わず吹き出してしまう。來のことを「滝川っち」と呼ぶあたり、あっという間に來がクラスの子と打ち解けたのが分かる。彼らの中では、先生と生徒というより、ちょっと年上の兄貴分みたいな存在なのかもしれない。そんな中、早苗が少し真剣な表情で口を開いた。「そういえば昨日、奈那子先生、階段から落ちたって聞いたけど……大丈夫だったの?」「ああ、あれね。数段だけだったから大丈夫よ。心配してくれてありがとう」「そのとき、滝川っちが助けに来てくれたって聞いたけど、ホント?」その言葉に一瞬、息が止まった。どうやら昨日の出来
ここ数日、どうにも落ち着かない。頭の中に、あの望の投稿が何度も浮かんでしまう。『元カノ、別れて半年も経ってないのに別の男と結婚したって。あんな男好きと別れられてほんとよかった』――あの言葉を見るたびに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。もう関係ないはずなのに。忘れたと思っていたのに。そのせいか、最近よくものを落とすし、人に話しかけられても気づかないことが増えた。來にも気づかれているのが分かる。何かやらかしたあと、ふと顔を上げると、必ず彼と目が合ってしまう。でも、來は何も言わなかった。ただ、静かに見守るように視線をくれるだけ。それが逆に、今はありがたかった。***その日も、授業中で保健室に来た生徒がいなかったため、わたしは巡回しつつ環境を確認していった。いつものように、トイレの除菌や廊下の換気をしていく。授業が終わるチャイムが鳴って、「そろそろ戻らなきゃ」と思って階段を下りた、その瞬間だった。ツルッ。「あっ――」体がふわっと浮いて、すぐにドンと落ちた。下から数段だったから大事にはならなかったけど、足首に鈍い痛みが走る。「先生、大丈夫ですか!?」近くを通りかかった生徒が駆け寄ってきた。わたしは慌てて笑顔を作った。「だ、大丈夫。ごめんね、驚かせちゃったね」本当は少し痛かった。でも、生徒の前で情けない顔はしたくなかった。でも、そのとき、聞き慣れた声がした。「横井先生、大丈夫ですか?」顔を上げると、來が立っていた。心配そうな顔でわたしを見下ろしている。「足、ひねりました?肩、貸しましょうか?」「だ、大丈夫です。平気ですから」そう答えると、周りの生徒たちがわっと笑いだした。「滝川っち、フラれたー!」「先生、男前に助けに来たのに~!」その無邪気な
洗い物を終えたころ、テーブルの上に置いていたスマホが震えた。画面を見ると、そこには「母」の文字。久しぶりの母からの着信だった。「……もしもし?お母さん?」『あら、奈那子。久しぶりね。元気にしてる?』2か月ぶりの声に、少し胸が温かくなる。でも次の瞬間には、この優しい声がどこか探るようなものに変わった。『結婚生活はどう?ちゃんとやれてるの?』これは、予想していた質問だった。「うん、大丈夫だよ。ちゃんとやってる」そう答えると、母のため息が小さく聞こえてくる。『……ほんとに?奈那子、來くんに迷惑かけてない?』迷惑なんて、かけてない……たぶん。「迷惑かけてない」と答えるとき、少し戸惑ってしまった。『それにね、ずっと気になってたんだけど……。來くんのご両親には、もう挨拶に行ったの?』以前に実家に行ったときには、「來くんのご両親に挨拶に行くときはきちんとしなさいね」と言われた程度だった。だから、こんな質問が突然来るとは思わず、わたしは言葉に詰まり、少し間を置いてから答えた。「……來のご両親、ちょっと忙しくて。なかなか予定が合わないの」『そう……。でもね、奈那子たち結婚式まだ挙げてないでしょう?向こうのご両親にお母さんたちもお会いしていないから、お父さんも心配してるのよ』母の声は責めているわけではなかった。ただ、娘を心配している親の声だった。だからこそ、胸が痛む。「……うん、わかってる。ちゃんと話してみるね」『そう。できれば來くんを連れてまた帰ってきなさい。お父さんも、奈那子の顔を見たがってるから』その言葉に、思わず小さくうなずいた。「來、部活の顧問もしてるから土日も忙しいことが多いの……一
ゴールデンウィークに入ると、学校は一週間近くお休みになった。けれど、部活動は別。來も数日、部活の顧問として出勤しなければいけなかった。「久しぶりに、涼子とヒロコ……高校のときの友達と会いたいねって話になったんだけど」そう言うと、來はすぐに笑ってくれた。「いいじゃん。行っておいで。楽しんで」あっさりと背中を押してくれるその気楽さが、やさしくてくすぐったい。その日の朝、わたしは休みだったけれど、いつもと変わらずキッチンに立っていた。來のお弁当を準備する手つきも、だいぶ自然になった気がする。「……お弁当、できたよ」來に手渡すと、彼は少し驚いたように目を見開いて、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。「休みなのに、ありがとう」そしていつものように、わたしの頭に手が伸びる。ポン、と優しく触れるその感触に、胸がふわっと温かくなる。このしぐさ、これで何度目だろう。気づけば、当たり前のように撫でてくる。まるで、本当の恋人みたい……いや、もう夫婦なのだけれど。それでも、くすぐったい。「いってきます」「いってらっしゃい」笑顔で手を振る來を見ながら、思わず頬が緩む。ドアが閉まったあとも、しばらく胸の奥に残るぬくもりが、静かに響いていた。しばらくして、わたしは出かける支度を始めた。お気に入りのワンピースを着て、少しだけ髪も丁寧に巻いた。涼子とヒロコに久しぶりに会うこの日を、この数日ずっと待っていた。胸が弾むような、少し緊張するような、不思議な気持ちで家を出た。***約束のお店は、ヒロコが予約してくれた韓国料理屋だった。「前から行きたかったんだよね!」とメッセージをくれたときの勢いのまま、店選びはあっという間に決まった。結婚してから三人で会うのは、今日が初めて。久しぶりの再会
家に帰ると、わたしは洗濯物を畳んで掃除をした後、早速夕飯の準備に取りかかった。チャーハンの材料を冷蔵庫から取り出していく。今日は來が遅くまで仕事を頑張ってくる日。気合を入れてリクエストのあったチャーハンを作ろう。そう思って、気持ちを切り替えようとしていた矢先だった。カチャ。玄関のドアが開く音がした。え?と手が止まる。もしかして泥棒?と体がこわばった。時計は18時少し過ぎをさしている。だって、來が帰るには早すぎるもの。でも、もしかしたら家庭訪問、中止になったのかもしれない。そう思いながら玄関を覗くと──知らない女性が、玄関の段差に靴を揃えて、家の中に入ろうとしていた。「……え?」その女性と、目が合った。相手も、わたしを見て固まっている。「ど、どちら様ですか?」自分の声が、思ったより震えていた。女性は少し驚いたように瞬きをしてから、丁寧に頭を下げた。「藤原美緒です」──美緒。どこかで聞いた名前だった。それに、どこかで会っているような気もしてきた。その瞬間、彼女が続けた言葉に心臓が跳ねた。「來くんと結婚した方ですよね。はじめまして。來くんのお母さんに頼まれて、おかずを届けに来ました」……思い出した。あの場所――行きつけだった「café&grill LUCE」で見かけた女性だ。來の元カノであり、望と浮気していた彼女――きゅっと息が詰まったように感じた。わたしは、彼女に会う準備なんて全くできていないのに。こんな突然顔を合わせることになるなんて――「ありがとうございます……」そう答えて、紙袋を受け取る手が少し震えた。あのときは、ほとんど顔を見ていなかったから、あまり印象も覚えていな
その朝は、いつもよりゆっくりとした時間が流れていた。テーブルには焼いた鮭と、お味噌汁と、炊き立てのご飯といった、いつもの簡単な食事が並んでいる。「今日は家庭訪問してから帰るから」味噌汁の湯気の向こうで、來が穏やかに言った。その言葉に、胸がすっと強張る。酒井真央は、まだ一度も学校に来ていない。毎日、母親からの欠席の連絡が続いていた。また昼休みに心配した表情の早苗がやってくるのが、頭に浮かぶ。「……そっか。今日だったよね、家庭訪問。話ができるといいね、酒井さんと」それしか言えなかった。もしかしたら今日の家庭訪問でも、何も変わらないかもしれない可能性があったから。気持ちを切り替えようと、わたしは笑顔を作った。「ねえ、今日の夜ご飯、何がいい?」來は箸を止め、少し考えるふりをしてから、ぽつりとつぶやいた。「豚汁……は、この前作ってもらったしな……」小声でぶつぶつ言う姿が、なんだか子どもみたいだと思った。そんな姿を、可愛い、なんて思ってしまう自分がいる。「あっ、チャーハン久しぶりに食べたいかも」來は急に、思い出したみたいに顔を上げて言った。でも、すぐに真面目な表情に戻る。「帰って疲れてたら無理しなくていいから。連絡して。お弁当でも買って帰るよ」その優しさが、あったかく胸に沁みる。「大丈夫だよ。料理好きだから。チャーハンくらいなら全然苦じゃないもの」本当の気持ちだった。誰かのために作る料理は、ひとりのときよりずっと嬉しい。食べ終わりのタイミングで、來が席を立つ。いつも通りだと思った瞬間――そっと、頭に手が乗った。一瞬だけ、驚いて息が止まる。撫でられたところが、じんわり熱くなる。「ありがとう」何気ない声なのに、心臓がどくんと跳ねた